日本国自治体国際化協会北京事務所
Council of Local Authorities for International Relations(CLAIR),BEIJING


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中国の「オリンピックコレクション」ブーム

(調査員 高 華彬)

   皆さん、こんにちは。
   はじめまして、今年9月からクレア北京事務所に勤務している高 華彬と申します。どうぞ、よろしくお願いいたします。
   私の故郷は中国の四川省です。今回の大地震で実家の町は震源地からちょっと離れていたので、被害を免れましたが、北京でテレビなどを通じて被災地の惨状を見て、非常に心を痛めております。世界各地、特に日本からも多大なご支援とご援助を賜りましたので、厚くお礼を申し上げます。
   北京の大学で日本語を専攻として習得し、卒業後、日本向けのビジネスに10年間くらい従事した後、JETプログラムに応募し、国際交流員として長崎県観光振興推進本部で一年間勤務させていただきました。長崎県での仕事がとても楽しく、現地の多くの方々と友達になり、私の人生においても有意義な一年間となりました。そして、帰国後もできれば、中日交流の架け橋になるような仕事を続けたいと思っていました。
   中国に帰って、就職先をいろいろと探してみましたが、まさかクレア北京事務所で働けるとは思いませんでした。クレアでの勤務を通じて、日中友好交流のために努力するという念願の夢をかなえることができ、大変嬉しく思います。
   これからはもっと日本語などを切磋琢磨して、中国のことを日本の皆様に正確に伝え、日本のことをも中国人に理解してもらい、両国国民の相互理解に役立てるように、微力ながら、こつこつ努力していきたい所存でございます。皆様の引き続きのご支援と御指導をお願い申し上げます。

  9月の半ばに入り、中国でオリンピックに引き続き、パラリンピックもいよいよ閉幕となったが、オリンピックグッズコレクターの間では、記念品が交換されたり、開会式で注目された楽器の「缶」から、バスケットボール選手の姚明氏が使っていた超大型ベッド、ボランティア達が着用していたユニフォームまで、さまざまなオリンピックグッズがインターネットなどで大いに転売され、コレクションのブームは当分続きそうである。

「オリンピック三宝」
   中国オリンピックグッズコレクター「ナンバーワン」である趙暁凱氏がコレクションをはじめたのは2003年で、決して早いほうではないが、既に中国が1949年以前のオリンピックに参加した記念品を既に400点あまりも集めている。そのうち、最も注目されているのは「オリンピック三宝」と呼ばれるほどの中国オリンピック第一人者、劉長春氏の手稿、1936年中国代表団がベルリンオリンピックに参加したときの薬箱、1948年中国代表団バスケットボールチームの旗である。「これらは1949年以前に中国が3回のオリンピックに参加した証拠である」と趙氏は言っている。趙氏が5万元(約75万円)で入手した薬箱は今、2000万元(約3億円)を越える価値があるとあるメディアが報道しているが、「重要な国家文化財なので、お金では買えない宝物である」と趙氏は思っている。
   コレクションの原則はいくつかあるが、まずコレクションはいつから始めても遅くはないこと。そもそも趙氏も2003年に、中国の有名なコレクション学者である馬未都氏の講座でその話しを聞いて、コレクションを始めている。
   それから、「物は稀なるを以って貴しとなす」こと。ブームがはやる前にはじめなければならず、誰もが持っているものには価値はない。最後に、創意工夫を加えるのも大切。例えば、「鳥の巣」スタジアムが使用を開始された際、趙氏は入場券数十枚を購入し、そのうちの29枚をコレクションに使い、試合当日に切手を入場券に貼り、わざわざスタジアム隣の臨時郵便局に行き、29番目のスタンプを探し出して、入場券に押してもらっている。こうして初めて、その入場券に唯一性ができ、価値が生じるのである。

オリンピックグッズの分類
  
今回のオリンピックで、北京オリンピック委員会は家電製品、技術設備、スポーツ機器材などトータルで33種類2000万点以上、総額10億元(約150億円)分の物資を獲得している。このおびただしい物資はオリンピックの後は公開競売の方式で数回に分けて処理され、普通の市民も現場に行き、競売に参加できるという。
   オリンピックグッズは大きく四種類に分けられると中国コレクション愛好家協会事務総長である張忠義氏が言っている。一番目は収蔵品であり、特殊な意味か歴史的意義を持ち、永久に保存できるもの。たとえば、金メダル、トーチ、記念金貨など。二番目は投資用のもの、価値を保存でき、それに将来価値が上がる可能性の大きいもの。ある意味では、収蔵品も投資用に使える。三番目は記念品であり、例えば「福娃(北京オリンピックのマスコット)」など限定発売のグッズがそれである。四番目は試合期間中使用した日常用品であり、例えばマンションや乗用車、家電製品など、ちょっと中古品になるが、物の実用価値を重要視する中国人にとってはかなり人気があるようである。
   大会後、オリンピック選手村のマンションは市場に2000部屋ぐらい提供できると言う。大会開催される前までに既に70%は市民に販売しており、残りの分の単価は今もう最初の発売値段より倍に上がり、3万元(約45万円)(1u当たり)になっているが、売れ残る心配はないという。それから、フォルクスワーゲンのオリンピック専用車も中古車業者に転売されたり、ネットで競売されたりして、手ごろな値段で飛ぶように売られているようである。
   しかし、姚明氏が使っていた超大型ベッド、金メダリスト張湘祥氏がキスしたバーベルなどはこれから、有意義な記念物として競売にかけられるというが、一定の記念価値はあるものの、収蔵価値は限られていると関係者は言う。

超人気のチャンピオングッズ
   スター達の人気上昇とともに、スター達が使用した、またサインした物もファンの間で信じられないほどの高値で売買されている。
   中国バドミントン代表の林丹選手が決勝戦で相手に完勝した後、狂喜のあまり、自分の靴二つとラケットを観衆に向かって投げ捨てた。片方の靴を拾った人がもう一つの靴がほしくて、ネットで10万元(約150万円)で買いたいと書き込んだところ、100人以上から返答があった。「林丹はまさか百本足のムカデか」、と一人のファンが冗談を言っていた。その値段も10万元から、50万元、100万元(約1500万円)へどんどん上がっていったという。実際、そのヨネックス「YYSSB−57C」、靴の市場売値が470元(約7,050円)。「AT−700LTD」ラケットが市場値1450元(約21,750円)で、オリンピックチャンピオンの林丹選手が使っていたということで、その靴の値上げ率を計算すると、靴とラケットを合わせて、林丹選手は瞬く間に400万元(約6000万円)を投げ捨てたことになる。が、これはメディアの勝手な計算に過ぎなく、実際はそんなに高くは売れないと思う。
  ほかには、閉幕式でベッカム選手が蹴り飛ばしたサッカーボールが100万元(約1500万円)で売りに出されているとか、中国男子体操「オールラウンドの王様」楊威選手の靴の市場売値が500元(約7500円)だが、婚約者である楊雲氏がネットショップで競売に掛け、結局1万元(約15万円)で河北省のある人に買ってもらったという。このような例はまだまだたくさんある。

ボランティアのユニフォームも競売
   今回のオリンピックとパラリンピックは史上最多の170万人のボランティアを動員している。ボランティア達は素敵な微笑みと献身的な仕事ぶりで世界各国の選手、そして観客に大変よい印象を与えている。試合後、ボランティアの方々にとって、きれいにデザインされたユニフォームはとても有意義な記念品になるが、一部のファンとコレクターもほしくて、高値で入手しようとしている。その値段はなんとワンセットで2000元(約3万円)から3000元(約45,000円)、T−シャツだけで800元(約12,000円)、ブランド品にも負けない。特に名選手のサインが入ったユニフォームは人気が高くて、売値も考えられないほど高くなっている。例えば、ジャマイカのボルト選手とキューバのロブレス選手のサインが揃ったユニフォームを3万元(約45万円)の高値で競売に掛けている人がいる。でも、実際本当に買おうと興味を持っている人は非常に少ないようである。
   換金さえできれば何でも売買するように見えるが、これはまさに市場経済が中国に着実に浸透しつつあることを反映していると思う。しかしながら、その一方でお金よりも精神的な面を重んじる方々もいる。北京科学技術大学の学生達が早くも7月からボランティアのユニフォームの寄付を募集し、ネットで競売に掛け、得た収入を四川省地震被災地区の中学校の図書館建設に寄付するという。現代オリンピックはビジネスとは既に切っても切れない関係だが、一方で人間の友情、人類の愛などをも強調し、大いに発揚しなければならないのではないかと思う。



北京五輪の祭典を振り返って

(主任調査員 金 丹実)

  各国選手たちの笑顔や涙に彩られ、数多の世界新記録樹立などで沸いた17日間。終ってみると短かった。夕方ふらりと立ち寄った店で無意識のうちに地元夕刊紙に手を伸ばすあたりは、ずばり五輪シンドローム。

  五輪競技は、男子サッカーの準々決勝など3種目を現地で観戦したほかは、テレビ中継を見たり新聞を読んだりする程度で、五輪フィーバーにうなされたわけでもないが、連日クローズアップされた奇跡の瞬間や、勝負の分かれ目の悲喜こもごもの表情が脳裏にこびりついて離れない。

◇開催前の空気
  中国ほど不運な五輪開催国がかつてあったろうか。いざ本番という年に、国土の大半が未曾有の雪害に見舞われ、新幹線衝突事故、チベット騒乱、聖火リレー妨害等憂うつなニュースが世界中を駆け巡った。果てには10万に迫る死者を出す大震災が襲った。国は総力挙げて震災救援に追われ、五輪の影は薄れた。

  国内向けには、テロや五輪妨害活動を警戒した管制の強化、一時居住者の締め出し、人やモノの北京への移動制限・検問措置や、北京市内主要道路における五輪専用車線設置、一般車両の偶数奇数別走行規制、電車駅や地下鉄での厳重なセキュリティ検査強化なども、市民の暮らしにしわ寄せを与えた。五輪期間中、入場券所持者以外はメインスタジアム中心の五輪公園には入れないというのも、お祭り気分に水をさしたかもしれない。北京にいても仕方ない、旅でもしようと思考転換する人たちが現れ、「避孕(避妊の意)」と同じ発音の「避運{ビーユイン}(五輪回避)」という造語が流行りだし、「どこで避運(ビーユイン)するつもり?」という会話が友人の間で交わされるようになった。「週末は東北で避運よ」と私も駄洒落宣言をし、五輪前夜に北京を脱出。旅の疲れと、開幕式が長すぎたことで、華やかな画面を追ううちに、眠りに落ちてしまった。

  しかし、競技が始まり選手たちの汗と涙にまみれた姿が画面に踊り出すと、居たたまれなくなって北京帰還を急ぎ、だんだんと五輪熱気に巻き込まれていったのだが、身近に五輪を体験できないのを残念がる地方の方々や、「こんなはずじゃないのに」と密かに思う市民も多かったかも知れない。

◇“頑張れ中国”――13億の思い
  北京五輪の枕詞に「百年の悲願」というのがあるが、私の北京五輪の記憶は、僅差でシドニーに敗れた1993年に遡る。あの夜、肩を落とすCOC(中国オリンピック委員会)委員らの姿に、1932年ロス五輪に一人遠征に出たという東北青年の姿が重なった。「昇竜」と言われるまでになった中国が国際社会の一員として受け入れられてもおかしくないという自負と期待は無残に砕かれた。開票結果に涙を呑み、近現代史の屈辱と挫折を想起する人もいただろう。だから、その後8年もの臥薪嘗胆の末、招致に成功した北京五輪は、官民が一丸となって「勝ち取った勝利」として歓呼の嵐を巻き起こし、五輪にスポーツそのものを超越したシンボリックな意味が付与されたのは言うまでない。

  この背景を知っている人なら、中国の才俊を集め、百年の夢がかなう歴史的瞬間を演出する開幕式が、あらゆる手を尽くして煌びやかな伝統の華、絶大絶命の美と感動、圧巻のスケールを世界に誇示することを、異様な風景とは思わないだろう。国旗を振り、飽くことなく「頑張れ中国」を連呼する若者たちも、13億の思いを背負いこんでいるものと微笑んでほしい。「たいへんな盛り上がりに、44年前の東京五輪を思い出しました。私は丁度大学に入学した年で、中国の若い人たちの熱狂ぶりがよく理解できました」という当協会事業で世話になった鳥取県の専門家から届いたメールは正直、嬉しかった。あの熱気は、マグマのようにいずれ一度は噴出して収まるエネルギーであり、メダルラッシュ同様、中国社会の「成人式」「通過儀礼」にふさわしい展開だと私は思う。その達成感をベースに、「メダルより人間の発展」といった発想が開けてきて、例えば、故障による棄権を余儀なくされた劉翔選手(110b障害、アテネ五輪金メダリスト)に、罵声を浴びせるのではなく、「金メダルならもう十分だ、きちんと故障を直してね」と励ます場面を4年後に期待したい。

◇個人的な感想
  史上最多の204カ国・地域から約1万6000人の選手の参加、38種目での世界新記録樹立、のべ100万人以上のボランティアの笑顔などを歴史に刻んで、「比類なきオリンピック」(ロゲIOC会長)は、無事幕を閉じた。囁かされていたテロはなく、競技運営に大きな不調があったという話も聞かない。厳しい引き締めや、規制と管理優先と関係あるかもしれない。個人的に残念に思うのは、多くの外国人や国民の自発的参加によって、みんなで盛り上げる祭典ではなかった点と、チケットの入手が非常に困難だった点だ。遠路やってきた外国人が「チケットがほしい」との看板を手に競技場周辺を徘徊する様子は気の毒だった。

(1) 五輪競技の現場で、オリンピック精神とは究極的には、人間賛美なのだと、初めてハっとした。選手が人間の極限を破り、限りなく神の域に近づいていく瞬間、見守る者は人種、民族、国籍を問わず、歓喜がもたらす酩酊の域に入るようだ。20日の夜、ジャマイカのウサイン・ボルト選手が陸上100bに続いて200bで世界新記録を誕生させた瞬間、数日前に劉翔を失った国家スタジアム(愛称鳥の巣)の9万人もの観客は、思わず狂喜の叫びを爆発させ、この日の主人公のために「ハッピーバースディ」を斉唱し続けた。これぞ五輪だ!と目が潤んだのは私ひとりではなかった。
(2) 今大会で外国のチーム同士が対戦する競技では、各国の応援文化が目を見張った。ブーイングや、相手サポーターに対する挑発、嫌がらせは論外。オレンジ色のオランダの応援団が合図とともに一斉に起立し、甲高い叫び声や歌で選手たちと連動するかのようにリズミカルな応援を送る風景には、中国人観客は目を奪われていた。これまでブラウン管でしか拝見できなかったブラジル、スペイン、イタリアなどのサポーターたちのパフォーマンスを見ることができただけで、現場に行った甲斐があった。
  実際、外国同士の対戦の場合は、中国の観客らも両チームの好プレーに熱烈な応援を送っていた。男子サッカーで中国を破り、準々決勝に進出したベルギーが3対2でイタリアに逆転勝ちした夜、北京のスタジアムでは6万人の観客が惜しまず両チームを応援しつづけた。
(3) 非排他的ナショナリズムは大いに推奨すべし!
  排他的でないナショナリズムというと、「絵空事だ」と一笑に付されるだろうか。自国の国旗やシンボルカラーを身にまとい、気勢を上げているサポーターたちからは、各国が自国の伝統スポーツや選手に抱く誇りや愛情がひしひしと伝わってくる。
表彰台に自国の国旗が掲揚され国歌が流れるとき、多くの金メダリストは目が潤んでいる。単に個人としての栄誉だけなら、このように感激しただろうか。家族、故郷、国を背負って闘っているから喜びが増幅するのがオリンピックかもしれない。
 
(4) オリンピックに見る国際化の流れ
  女子バレー予選で、中国は元中国代表選手の郎平氏が監督を務めるアメリカと3対2の接戦の末敗れた。それでもサポーターたちは「郎平!郎平!」を連呼し続けた。女子卓球の日本代表であった小山ちれが中国選手と対戦した際にブーイングの嵐に遭った一昔前の大会を思うと、隔世の感だ。女子ホッケーでは、韓国人監督・キムヨンベク氏率いる中国女子代表が韓国に完勝。中国のシンクロナイズドスイミングを銅メダルに導いた井村雅代監督も満場の歓声を浴びた。選手が国を代表して戦う競技場における国際化の流れが、五輪に一層の魅力を添えている。
(5) 金メダル大国はスポーツ強国にあらず。中国のメダルラッシュの中、国技の卓球やバドミントン、飛込みなどでは、金メダルが当然といった感じすらあった。これに対して、不名誉な敗退を重ねた中国の男子サッカーは、五輪期間中はどの競技場に行っても、官製のサッカー協会トップの即刻クビと代表チーム解散を求める合唱がこだました。インターネットに男子サッカーネタの自虐ギャグがあふれ、国民のストレス解消に寄与しているのが現状。これを知ったマラドーナ元選手(アルゼンチン)が、「選手を罵らないでください。子どもたちがサッカーから離れていくだけです」と戒めたという。金メダル数で一位となっても、スポーツ強国への道程はまだ遠い。

  最後に、北京五輪で話題になった日本人を何人か選んで紹介しましょう。

  露出度や取り扱いからすると、「蛙王」「磁器人形」。さて、どの選手のことでしょうか(回答は末尾)。日本の「花遊教母」も、夕刊紙に写真入りで取り上げられていた。

  “ママでも金”を逃がした谷亮子も人気。銅メダルを手ににっこりする写真のキャプションは一行:「しっかりものの谷亮子は涙を見せなかった」

  ※正解:「蛙王」:殿様ガエル。平泳ぎの北島選手。「磁器人形」――卓球の福原愛選手はこのニックネームで愛されている。「花遊教母」:教母とは、ゴッドマザーの意。シンクロナイズドスイミング中国代表コーチの井村雅代さん。



オリンピックが間近に迫った北京の事情――交通篇

(調査員 蒋 丹丹)

  2001年7月13日に北京が2008年のオリンピック開催地として選ばれて以来、7年を経て、やっと、8月8日のオリンピックの開幕が間近に迫ってきました。

  「8」は、中国人にとって、すごく縁起のいい数字ですが、2008年の今年は、どうやら災いが相次いでいるようです。年末年始の雪害、チベット暴動事件、山東省の列車衝突事件、そして思い出すのもつらい四川大地震……!どれも多くの犠牲を伴う大惨事でした。しかし、中国国民は、国内外からの援助を受けながら、一生懸命頑張って、災害を乗り越えてきました。

  この8月のオリンピックの開催は、まさに皆の疲れた心を癒し、また奮い立たせることができると思います。

  主催地である北京市は、オリンピックのために、長年に亘り、様々な準備をしてきました。道路の整備、「鳥の巣」、「水立方」などのオリンピック施設の建設、街の緑化など、タクシーの運転手さんでも昨日走っていた道が今日無くなったり、今までぜんぜん知らない道が突然どこか現れたりするため時々迷うほど、街の変化は著しいです。

  開催が迫っているオリンピック期間中の交通状況を改善するため、7月20日(日)から9月20日(土)まで、オリンピック対策として、「単双号」という交通規制策を実行しています。これは、交通状況改善のため最も効果のある措置とも言えます。

  「単双号」というのは、奇数の日にナンバープレートの末尾の数字が奇数番号の車輌、偶数の日に偶数番号の車輌が走るということです。例えば、20日は、ナンバープレートの末尾の数字が0、2、4、6、8の車だけが走ることができます。21日には、末尾の数字が1、3、5、7,9の車が走れます。もちろん、一部の車は、「単双号」の制限を受けません。例えば、パトカー、消防車、救急車、市内バス、長距離旅客輸送バス、タクシー、オリンピック委員会が出したオリンピック専用車両証を持っている車と北京市公安交通管理部門が出した「通行証」を持っている車、勤務中の都市管理、環境保護観察専用車などです。また大使館の車も制限の対象に入っていません。

  「単双号」の実施によって、毎日の北京の交通量は半分程度減少することになります。規制を受ける大部分の人たちは、間違いなくバス、地下鉄、タクシーなどを利用しなければならないようになります。道路の渋滞問題は解決できますが、朝と夕方のバス、地下鉄でのラッシュ時の混雑が更に厳しい状況になります。それを解決するため、「単双号」と合わせて、「時差出勤・退勤」政策を実施しています。

  「時差出勤・退勤」とは、北京各政府関係部門、都市の正常運営を確保しなければならない企業、社会団体、学校以外の各企業、団体などに対し、出勤.退勤時間を調整するという政策です。具体的には、以下の通りです。国有企業の出勤時間は9時、退勤時間は17時。大型スーパーの営業時間は10時からで、夜の閉店時間を延長します。学校以外の事業単位と社会団体の出勤時間は9時30分、退勤時間は17時30分になります。このような措置で、ラッシュ時間のピークをある程度緩め、各時間帯に分散することが可能となります。

  また、20日から毎日バスの発車回数を1.1万回増加し、地下鉄の発車間隔も短縮するようになったそうです。

  私の個人的な経験から見ると、「単双号」が実施された初日である7月20日に、バスに乗ってみたところ、休日も一つの原因かもしれませんが、確かに道路はいつもより車が少なく、バスの運行も順調に進んでいました。しかし、乗客数も明らかに普段より増加していました。「単双号」が実施されてから初めての出勤日である翌21日は、大変な苦労をしました。地下鉄の13号線から2号線の乗換駅――東直門駅で、人が押し合いへし合いするほど多く、一回目の列車には乗ることができず、二回目で、やっと乗ることができましたが、息が苦しいほど人が多くて、足も踏まれ、背中に汗がぽたぽた流れました。その時、頭に浮かんだのは、このような状態が続くなら、毎朝、大変じゃないかということです。しかし、その日の夕方の退勤時にまた地下鉄に乗ると、久しぶりに空席が見られるほどすいていました。事務所の退勤時間が5時なので、助かりました。

  その後、毎日、地下鉄で通っていますが、21日の朝のようなラッシュはその日限りでした。夕方の退勤時も、5時通りに退勤すれば、ラッシュに巻き込まれることはありません。

  「単双号」の実施で、車で通勤している人々にとっては、不便になりますが、3ヶ月の税金と道路使用料が免除されます。また、待ちかねたオリンピックのために、こうした形で少しでも貢献することができるのなら、皆、喜んで賛成するだろうと思います。

  私も、北京に住む一人として、何かできればいいなと思いますが、オリンピック期間中はできるだけ、どこにも行かないようにすることが、それが一種の貢献になるかもしれません。

  最後に、2008年北京オリンピックが、無事に、円満に開催されることを心から祈っています。     



中国の不動産現状

(調査員 張 シン)

  最近、話題になるのは北京を含む大都市の住宅マンションの売買市場の低迷ぶりです。中国全土の住宅マンションは値下がりしています。「この下落はいつまで続くか?」と投機目的で購入したマンションを慌てて売り出そうとする投資家や更に下がるだろうと迷ってしまってマンション購入資金を貯える普通の庶民のこの市場に対する不透明感は拡大し続けています。

  ご存知のように、中国でのインフレの拡大、海外からのホットマネーの大量流入、都市化の進展、更なる上昇を狙う投機行為等の理由で、2005年から、中国各都市におけるマンションの価格は高騰してきました。北京で一番高いマンションは一平米6万元(約95万円)まで上がり、平均単価は一平米12500元(約20万円)もすることから、マンションは普通の庶民にとっては手に入れられない高嶺の花となりました。

  しかし、今年に入ってからは、中央政府はこの急上昇を抑制しようと本格的に乗り出して、相次いで政策を打ち出しました。まず、外国人の購入に規制をかけるようにし、ホットマネーの流入を阻止する、中国国内購入者、特に投資行為に対しても住宅ローンの審査を厳しくする、それから、銀行融資を引きしめるため、2008年はまだ半年過ぎていない内に、既に五回も準備金率の引き上げを行って、現在の準備金率はすでに17%となりました。  地方政府に対しては、地方財政収入の1%〜2%、そして土地譲渡収入の10%を市営住宅開発に使うと義務付けて市営住宅の開発に力を入れるよう求めています。

  これらの政策が功を奏したのか、中国のマンション価格は今年から下がる一方です。

  実は中央政府だけでなく、国有地の供給が財源となり、地方のGDP成長に大きく貢献してきたことから、今までは不動産開発に積極的な態度をとってきた地方政府も、マンション高騰がもたらしたマイナス面に直面し、今までの認識を変えざるを得なくなりました。例えば、南の深センでは、土地取得費用が上がる中、外資系企業がコストを抑えるため、深センから退去し始めています。また、例年なら全国から30万人の大学新卒者が深センに就職していたが、高いマンションの価格も影響して、2007年は15万人しか集まらなかったそうです。このような企業や人材の流失が続けば、地方の発展に大きく影響することから、地方政府は今までの姿勢を考え直す時期が来たものと思われます。

  政府の今までの取り組みは評価すべきものであり、一庶民としては、豚肉、卵、食用油等の食品が値上がりし続けている中、マンションの値下がりは喜ばしいことですが、依然として高いことから、もっとたくさんの人がマイホームを持ちたいという夢を実現させるには、政府は今まで以上に、この課題の解決に力を入れないといけないと考えます。



大震災の衝撃を乗り越えて

(主任調査員 金 丹実)

  5月19日午後2時28分。北京市内ではクラックションが一斉に鳴らされ、車や通行人も立ち止まって震災犠牲者に黙祷を捧げた。天安門広場はじめ各所に半旗が掲げられ、新聞やウェブサイトの表紙が悲哀の黒一色に塗られた。
オフィスの一角で手を合わせる3分間、瓦礫に敷かれて苦しみながらこと絶えていった数万もの命を思って、悲しみがこみ上げる。国家の名による追悼によって、犠牲者や遺族が救われるとは思わないが、この瞬間、胸中の悲哀の塊が少しずつ溶け出したような気がした。

  一週間前、オフィスビル5階の事務所で突然の目眩に襲われて、地震発生を知った。震源は2000キロ以上離れた四川省成都付近、マグニチュード7.8。この速報に唐山大震災(1976年、震度同上、死者24万人)の記憶が蘇った。小学生のころ、私の生まれ育った東北の町にも唐山の負傷者が大勢送り込まれ、手足に包帯を巻いた姿の人たちが街に溢れていた……。

  震災第一報の死亡者数は107人、だが数時間後には一気に8000人に上昇した。修正マグニチュード8.0。阪神大震災の20倍以上のエネルギーによる揺れとの試算もある強震による犠牲者数はその後どんどん膨らみつづけ、21日の時点では失踪者を含め7万人に迫る勢いだ。

  CCTV(中国中央テレビ)がリアルタイムで報じる映像は、廃墟と化した町、無造作に包まれて並ぶ死体、きびしい救援作業、絶えぬ余震と雨、土砂崩れ、寸断された交通、決壊寸前のダムなど、ハリウッド映画の災害シーンさながらの光景だ。多くの小中学校生徒の死亡は何より痛ましい。瓦礫の山から覗く葉タバコ程度の太さの鉄筋から推察するに、僻地の校舎に耐震強度などあったものでない。また、インフラの脆弱な山奥の町が、クリティカル・ポイントとされる72時間前後まで音信不通の陸の孤島であり続けた。険しい地形、余震、悪天候が救援ヘリの着陸を不可能にした。咽るTVキャスターは、想像を絶する震災に不意打ちされ悲嘆に明け暮れた多くの国民の姿そのものだった。行き場のない悲しみはやがて「何かしないと居たたまれない」気持ちになり、市民らの自発的な行動が相次いだ。

  その一つが献血だ。中国人は、献血後に気力が衰えるなどの理由で献血を嫌う傾向が強く、義務献血が定着していない。ノルマを与えられた機関団体などでは、200tの献血をする人に対し、1000元前後の栄養手当てを支給するなどして希望者を募るも、なかなか手を挙げる人がいない。それだけに震災直後の成都市の街頭で市民が無償献血車の前に行列している映像に、中国の人々はじーんときたはずだ。その後、北京でも献血希望者が血液センターに殺到。当事務所の中国人職員が土曜15日の昼過ぎ、王府井歩行街にある献血車で申し込もうとしたら、当日の募集枠は9時前にいっぱいになったので、すでに締め切っていた。「大災有大愛」(大災難のなかで偉大な愛がうまれる)という。災難が、民族の気質を変えようとしていると感じた。

  市民の寄付熱も空前のものだった。「公益」「分かち合い」の文化は中国社会にまだ浸透してない。だが震災の甚大な被害を目前にして、企業家、有名人から一般市民に至る夥しい人たちが、救援と再建の一助にと、最大限の寄付を行っている。

  チャリティショー現場で計1億元(1元は15円)以上を寄付した唐山震災遺児出身の企業家は、国民の感動を呼んだ。いち早く1000万元を寄付したジャッキーチェンなどにも敬意が払われた。他方、一部の有名人の寄付額が知名度や高額のギャラに比例しないことを非難し、「弱者の痛みに無関心で社会責任を自覚しない企業家・芸能人をリストアップしボイコットすべきだ」との声も聞こえた。寄付額の多寡にこだわるのは寄付の本旨から逸れる。だが死傷・疫病・困苦に怯える震災地獄と花形職種の派手な世界とのギャップに平静でいられない気持ちもわかる。

  私の友人や近隣所を例に挙げると、カンパをしない者は一人としていなかった。寄付先は職場、地域、赤十字など団体に分かれるが、寄付額は、月給の10分の1程度を妥当と考える人が多く、被害拡大とともに追加で一口1000元以上の寄付をした人が何人もいた。なお携帯ユーザー(5億人以上)の多くが、ショートメッセージによる赤十字会への2元単位の引き落としの呼びかけに同調した。市民たちの間で今回のような広い共感帯が形成されるのは未曾有のことだ。

  ちなみに、国内外からの義捐金総額は、震災死亡者数の推移とともに、13日の2億元余から15億、34億、89億元へと雪だるま式に大きくなって、21日現在は振込みベースで126億元、中央財政からの拠出金を上回った。

  この度の震災で、多くの孤児が生まれた。CCTVでは、両親を失ったショックから食べも笑いもしない児童を写す映像の下端に、養子縁組申込み窓口電話の字幕を入れて流した。北京の地元誌も、「30歳以上、経済面、教育面で支援する能力を有し、健康である夫婦なら可」という記事に連絡先を16日付けで掲載した。その翌日の会合で、私の友人が「女の子を一人引き取る」と打ち明けた。「一晩じゅう話し合って決めた。息子も異議ない。わが娘として育て、教育を受けさせたい」。友人は大学の教師で夫は公務員、息子は今年中学に上がる。この日友人は、会合中も折を見て電話をかけ続けていたが、回線が忙しいようで通話できず焦っていた。「養子縁組申込み、1万件以上殺到」というインターネットニュースを翌日読み、状況を理解した。友人夫婦と震災孤児の養子縁組が成功したら、女の子を欲しがりながら一人っ子政策の制限で諦めていた彼らはきっと養女を可愛がり、大切に育てるに違いないと思うと、震災後はじめて心温まる思いがした。

  今回の震災報道を振り返ると、励まされたことがいろいろあった。

  (ア) 中国の国営メディアの対応が、まずまず満足できるものであった。
  とくに震災発生初期、CCTVはいち早く現場入りして、24時間体制でリアルな被災報道を全国に届けた。温家宝総理の現地入りや軍の救援作業をクローズアップして士気鼓舞を図りながらも、敢えて深刻な被害事実と途方に暮れる庶民の涙を、画面から排除せずそのまま伝えてくれた。巨大災害により引き起こされかねない恐慌を恐れず、死傷者情報、交通インフラ網寸断など由々しき事態を視聴者と共有しようしているように見受けられた。こうした情報開示が、全国民と世界中の人々の心を動かし、震災支援の機運の高揚に結びついたのでは思う。多くの国外のメディアも被災現場に入って生情報の発信しているようだった。2003年SARS事件の時、国営メディアの対応の遅れと情報隠蔽が恐慌を広めた教訓が生かされていると感じた。

  (イ) 国際社会が支援の手を差し伸べてくれ、中国が感謝を込めて受け入れたことも、印象的だ。
  特に日本の国際緊急救援隊の奮闘ぶりはCCTVでも取り上げられ、インターネット上で好意的な書き込みが目立った。昨年当事務所主催日中地域交流推進セミナーを共催していただいた成都市政府関係者からも、「彼ら(日本救援隊)は最善を尽くした。亡くなった生命に敬礼をするシーンにはみんなが感動した。生存者を見つけられなかったのは、運が悪かっただけだ」との声が寄せられた。

  なお震災直後、当事務所では四川省人民政府と成都市政府にそれぞれ見舞い状と義捐金を送付した。いずれも丁重に受け入れられ、日中地域交流強化への期待が表明されたことをここに書き添える。

  (ウ) ボランティアの登場、市民力が、震災克服の原動力になる。
  震災初期は、被災現場への交通が寸断され、余震が続くなど受入条件が劣悪だったので、被災地への出入りに制限がかかっている中、特技をもつ一部のボランティアが装備をもって被災地入りして、人命救助、死体引取り、救援物資の搬送、消毒防疫作業などに加わった。熱い思い一つで現場入りしたが怪我したりして保護されるボランティアも続出。そのため北京の主要NGO団体は活動を献血、募金に絞ってむやみな移動を自制し、メールニュース(例えば「民間公益震災特刊」)を編集して、ボランティアマニュアル、救助知識、現地ニーズ、被災地NPO情報等を配信した。

   震災一週後、多くの地元市民がボランティアとして捜索活動のサポート、炊事の提供、消毒・介護などに当たる姿がたくさん報道された。政府は目下、負傷者を運び出し、被災住民向けに500g食料プラス10元/日の手当てを、身寄りのない者には月600元の生活費を支給すると決め、震災復旧に全力で組んでいる。だが、政府の手に負えない部分もたくさんでてきている。震災復旧物資の搬送、広大な地域に分布している500万世帯の被災民への食料や医薬品の補給、けが人や病人の介護、心的外傷を負った人たちのメンタルケアなどが、市民ボランティア・NPOの活躍の場になっている。18日の時点で、成都市だけでも大学生、看護婦、会社職員など5万40000人が震災ボランティア登録をした(『華西都市報』)という。

  災難がきっかけとなって、真のボランティア精神が中国に根付き、全社会が力を合わせて震災を克服していくことを切に願っている。



ルームシェア

(調査員 蒋丹丹)

  事務所の中で何度もこのような会話をした。
  「今どこに住んでいますか?」
  「三元橋の近く、静安庄っていう所です。」
  「大学の友達と一緒に?」
  「…いえ、別の人。」
  「別の人って?」
  「あの、知らない人です。」
  「マジッ!知らない人なの?…1つのマンションを知らない人と2人でシェアするの?」
  「いえ、マンションの中の1つの部屋を2人でシェアします。」
  「すごーい!」
  こういうふうに、最後に日本人の同僚は、必ず信じられない顔をする。

   たぶん、日本人にとっては、まったく知らない人と1つの部屋をシェアするなんて、考えられないかもしれない。だが、中国では、これはごく普通のことだ。とはいえ、本当は『仕方ないから』でのことだ。

   北京だけではなく、上海、広州、深センのような大都市では、これはよくあることだ。

   ほとんどは私みたいな就職して間もない若者、外地※1から来た労働者など。主な理由は家賃が高いため。交通の便利な所だったら、一般的に12uの部屋でも1000元以上はかかる。1人で負担するにはつらいので、誰かとシェアして費用を分担すると楽だから。学生は卒業したら、自分で住む所を探さなければならない。もちろん、大学の友人と一緒に住むことも結構あるが、お互いに就職先が遠いなどの理由もあって、友人と一緒に住むことができず、まったく見知らぬ他人と住むようになることも多い(私の場合もそうだ)。外地から来た労働者も同じで、給料の高い人は1人で1つのマンションを借りることもできるが、給料の低い人は仕方なく他人とシェアしなければならない。

   ネット上で、一緒にルームシェアする人を探す情報がいっぱいある。マンションの位置、施設、面積、家賃、近所の交通状況とスーパーなどの情報が全部整っている。気に入った場所があったら、ネット上にある電話番号に電話して、詳しい状況を聞く。話が進めば、直接マンションへ見に行く。OKだったら、契約を結び、予約金を支払えば、これで住む所ができる。私の場合は、何ヶ所も見てやっと今住んでいる場所に決めた。

   マンションの環境も大事だが、一緒に住む人がどのような人かも大事だ。お互いに話して、相手の年齢、性格、仕事、生活習慣など、ある程度の情報を頭に入れて、一緒に住んでも特に問題ないと判断できたら、安心して住むことができる。マンションを借りる時は、環境と一緒に、住む相手を合わせて判断しないと、何か問題を発生する可能性も高い。

   例えば、早寝好きな人とよく夜更かしする人と一緒に住めば、喧嘩になるように…。

   近年、「異性合租」というルームシェアのやり方が盛んになっているらしい。名前の通り、男性と女性が1つのマンションをシェアするということだ(恋人同士のルームシェアは「異性合租」と言わない)。一般的に、二室一庁※2(マンションの種類もいろいろある。例えば、一室一庁、二室一庁、三室一庁、三室二庁など)のマンションに発生する。それぞれ一室を借りて同じマンションに住む。なぜ「異性合租」が盛んになるのかというと、お互いに補うことができるからだ。男性の方は、日常生活の面倒を見るのが苦手で、家の掃除、洗濯、片付けなどについて悩んでいる人が多い。女性と一緒に住めば、マンションの衛生はある程度保証できる。また、女性の方も、日常生活が大丈夫だが、力仕事はだめだ。重い物の運搬とか、電気製品の故障とかは、男性の方が簡単にできる。このようなことから考えれば、たぶん「異性合租」はとても合理的で、住み心地が良い方法だと思われる。もちろん、「異性合租」の結果としてルームシェアの2人にお互いを思う気持ちが生まれて、恋人同士になることもよくあるという。しかし、一方、危険が発生する可能性もある。「異性合租」の例として、ある男が女に暴行をはたらいたことも新聞で見かける。

   要するに、家賃がだんだん高くなる現在では、他人とルームシェアすることは大きな現実としてこれからも続くと思う。でも、どんな人とシェアするのかは、自分で安全の意識を持って、また性格も考えて、よく判断しないといけない。とはいっても、「知人知面不知心(人は見かけによらない)」という古い言葉もあって、なかなか難しいことだ。だが、世の中、悪い人よりいい人の方が明らかに多いので、お互いに誠意を持ってやさしくしていけばいいと思う。

   私も今、山西省の女の子と一緒にルームシェアをしている。同じくルームメートとして時々不慣れなこともあるが、無事に生活できる。事務所までちょっと遠いので、また引越ししようかなと何度も思ったが、近い場所であればその家賃は安くなく、安いならやはり遠い場所しかなくて悩んでいるところである。

※1:外地…よその土地。他郷。
※2:二室一庁…2LDK



北京のベビーヘルパー事情

(調査員 張 シン)

  今年の夏、娘が無事に誕生した。そして彼女が生後4ヶ月で仕事復帰。

  幼い赤ちゃんを家において安心して働けるのか?と日本の方は疑問に思うであろうが、中国は専業主婦という習慣がなく、産休が終わると、当たり前のように働きに出かける。昔は、子供をおじいさん、おばあさんに預けたりしていたが、女性の出産年齢の高齢化※1に伴い、おじいさん、おばあさんも高齢化しているため、力になれなかったり、一人しかいない孫のことを思うあまり、存分に甘やかしてしまい、わがままな「小皇帝」にまで育ててしまうケースもよくあるため、おじいさん、おばあさんにはあまり任せたくないと考える親が増えてきている。

  このような背景の中で、女性の仕事と子育ての両立を支えるために登場してきたのはベビーヘルパーだ。人件費が安い中国だから、今までと同様にお手伝いさんを雇う、普通の家庭も少なくないが、ここ5、6年の家政婦市場の大きな変化と言えば、従来のお手伝いさんよりベビーヘルパーに対する需要が大きくなったことだ。このことは、派遣会社の名称が以前は「家政服務公司」(家政会社)であったのに、最近は「家政育児服務公司」(家政ベビーヘルパー会社)と変化したことからもわかる。

  ベビーヘルパーとは24時間体制で母親代わりに赤ちゃんの面倒をすべてみる上、手が空いた間に、家事もきちんと行う女性のこと。従来のお手伝いさんよりはずっと重労働だが、給料も倍以上で、面倒を見てきた赤ちゃんの数や資格の有無により、初級、中級、特別級、スター級とランクされ、月給は1,500元から5,000元。しかも、雇い主の家に寝泊りし、生活費は一切かからないので、収入は普通のサラリーマンとあまり変わらない。以前のベビーヘルパーは、お手伝いさんをしていた農村出稼ぎ女性が直接昇格してきている場合が多かったが、政府がリストラ者の再就職問題を解決する一環として、地方政府が北京や上海の大都市の派遣会社と連携し、リストラされた女性に専門教育を受けさせた後、ベビーヘルパーとしての再就職のチャンスを作ったので、今はリストラ者からベビーヘルパーに転身したケースも多くなってきている。

  ベビーヘルパーを雇いたい場合、派遣会社を通じて派遣してもらうのが一般的である。人選する際は、もちろん一番重要なものさしは“経験”であるが、リストラ者は従来の農村女性より、教養度が高く、物事を早くマスターできるし、最近は『教育は新生児から』というのが流行っており、子供の傍にいる人間の教育水準も重要であると考えられるため、業界内で評判となっている。

  そして、人選時にもう一つの決め手となるのは“土地柄”だ。例えば、四川省、安徽省の女性は器用でよく働き、東北人は性格がさっぱりして親しみやすいなど、出身地で決める家庭も少なくない。しかし、どこにもいい人がいれば悪い人もいるから、はずれも多い。

  私は東北人のリストラ女性を雇っている。5年前に北京に来てずっとベビーヘルパーの仕事をしてきたので、経験豊富で、赤ちゃんの面倒をよく見てくれている。子供が母親の自分よりベビーヘルパーと親しくなってきているらしく、寂しい思いをする時もあるし、赤の他人と一つ屋根の下で暮らしているわけだからトラブルも少なくないが、ベビーヘルパーがいてこそ、今現在、安心して働くことができる自分がいるのだから、ありがたく思っているのが本音である。

※1 <参考>北京の平均出産年齢 2000年27.24歳 2005年28.83歳



 

 
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